東京独歩記(とうきょうひとりあるき)

上京とか挫折とかアル中とか結婚とか子供とか、承認欲求とか、自己顕示とか。

中2の時の横恋慕

中学2年の時、1つ上のN先輩に恋をした。

学内で目立つような人気者というわけでもヤンキーというわけでもない、ふつーの女の子だった。

それでも僕には、N先輩が視界に入っただけでも、血液が沸騰し、全身の毛が逆立つのが自分でもわかるほどその先輩が輝いて見えた。ポニーテールがとてもまぶしかった。

しかし、この恋を成就させるにはあまりにもハードルが高すぎた。なんせ、接点がまるでないのだ。学年も違えば、部活の先輩後輩というわけでもない。地味な女の子だったから、僕の周りにもN先輩のことを知ってる友達は少なく、全く彼女に関する情報が入ってこない。

ただただ、休み時間にN先輩が現れそうな場所に足を運んだり、全校集会の移動の時に先輩の姿を探したり、自分に似たような境遇の片思いソングを聴いては自分の青臭さに酔いしれたり、N先輩への想いが膨らみ続けるだけで、日々が過ぎていった。

ついには、思いつめるあまり、下校の時に、N先輩の家をつきとめるために尾行までしてしまった。家はつきとめたが、先輩と一緒に帰ってた先輩の友達には多分ばれてただろう。それでも自分の気持ちを抑えられないところまで僕の恋は追い詰められていた。今でいうなら完全にストーカーだと思う。危ない中2の少年だった。

 

あれはある土曜日の午後だったと思う。その日、僕は「今日しかない!」と思い、N先輩に告白しようと決心した。きっかけは我が家で購読している新聞の『今日の運勢』の欄を読んだときに、自分の双子座の内容が『エビでタイが釣れる日。ささやかなものでも望み通りの成果をあげられるでしょう』と書いてあったからだ。

理性ある大人ともなれば、そんなばかなと娯楽程度で読み流せるものも、いたいけな14才の少年をその気にさせるには充分だった。

さっそく僕は友人に連絡し、スーパーの花屋で花束を買って、N先輩の家に二人で突撃訪問した。この花束がどうやらタイを釣るためのエビらしいが、残念なことに、薔薇の花束のような愛らしいものとは程遠い、仏壇やお墓に供える仏花の花束だった。

いざ、先輩の家の前まで来たはいいが、そこからが長かった。足がすくんで前にでない。2階の先輩の部屋と思われる部屋の窓の向こうに、いるかいないかもわからない先輩が髪をとかしたり、何かをしているところを想像し、現実逃避に時間を浪費していた。ドアまであと数メートルの距離が縮まらない。生きるか死ぬかの大問題のように、その先に待ち受ける現実が恐ろしくて、逃げ出したくて堪らなかった。

いい加減ついてきていた友人がうんざりしだしたので、覚悟を決めて、ドアまで歩み寄り、チャイムを鳴らした。

「留守だといいなぁ...」

果たして運命の扉は開かれた。

出てきたのは、N先輩のお母さんだった。

「こ、こんにちは。あ、あのN先輩いらっしゃいますか?」もう、心臓バクバクだった。

「あら、〇〇のお友達?2階にいるわよ。ちょっと待っててね」

先輩のお母さんは、僕をささっと上から下まで観察すると、全てを察したような顔で家の中へと戻っていった。どことなく先輩の面影があった。

「やっぱり、先輩の部屋、2階のあの部屋だったんだ...。これからはあの部屋で、先輩と2人で勉強したりいちゃついたりするのかなぁ」なんて、少し呑気な妄想をしていた時だった。

ドアが再びゆっくり開きだした。

そして、現れたのだ。N先輩が。

もはや頭は真っ白だった。可愛い過ぎる。こんなにも間近に、真正面から先輩の顔を見ることなどなかった。可愛いと思ったから好きになったわけだが、こんなにも可愛かったのか。やばい、震えがとまらない。

先輩はなぜだか真っ直ぐ僕の顔を見据えている。

もうだめだ。免疫ができてなさすぎる。このままでは精神が崩壊する。

ついに僕は気持ちを伝えたい情熱よりも、この場を逃げ出したい欲求のほうが勝ってしまい、おもむろに先輩にエビを渡して、逃げ出してしまった。

 

日はとっぷり暮れていた。友人はどうやら家族で出かける用事があったにもかかわらず、僕に連れ回され帰宅が遅くなったため、帰るなり親父さんに思いっきりしばかれていた。

 

僕はといえば、自分のせいで友人がしばかれたことなど気にもとめず、燃えカスのようになって、家に辿り着き、知恵熱でも出るんじゃないかってくらいぐったりとベッドに倒れ込んだ。

 

N先輩とは当然ながら、その後は何の進展も見られないまま、先輩が卒業していった。

のちのち聞いた話では、先輩にはすでに彼氏がいたそうだ。しかもその彼氏は暴走族ときたもんだから、いやはや、僕の恋は、なかなか危ない横恋慕だったわけだ。

 

失恋の傷が癒えてきたところに、新たに入学してきたN先輩の妹から、妹の友達の前ですれ違いざまに、「ああ~!あの人、お姉ちゃんに告白してフラれた人だよ~」と、傷口に塩を塗られたことも、今となっては、甘酸っぱいアオハルな思い出である。

電波ちゃん

 子供の頃、じゅくじゅくの柿が散乱してる田舎道で、近所のガキから、「お前は天才だ」と吹き込まれた時から、私の電波系は始まった。

 そのガキ曰はく、「ひつじ年生まれで、双子座の人間には天才が多い」ということらしく、私がまさにその条件に一致したため、「お前は天才」という稚拙な結論が導き出されることとなった。

 私も馬鹿だからそれを鵜呑みにしてしまい、自分を客観視できる大人になるまでの数十年間、その洗脳が解けぬまま、若き日々を駆け抜けてきて、今に至る。 

 とはいっても、電波をこじらせ周囲に多大な迷惑をかけるようなレベルではなく、ある程度世間には適応して生きてきた。

 ただ、振り返ってみた時に、我ながら「なんて痛い奴だったのだろう」という、思い出すたびに恥ずかしくなり、自己嫌悪してしまうほどの黒歴史は積み重ねてきた。

 

 例えば、こんな電波を受信したことがある。

 ある時、学校の図書館にある伝記のマンガで、『空海』を読んだ。その伝記のなかで空海は、日照りで苦しむ農民たちのために、雨乞いを行い、見事に農民たちを救った。

 その時の、雨乞いに使用された呪文が『アンビラソンケン ソワカ アンビラソンケン ソワカ ウン』だった。

 空海のその偉業に私は大いに感銘を受けた。

 それからしばらく経ったある夏の日の、プールの授業が終わった時のこと。

教室に戻る途中で、友達が「ああ~、この後雨降ってくれないかな~」的なことを言った時、その言葉に私は「ここだ!」と思い、その友達にこう言った。

「任せてよ。俺、雨降らせること出来るし。」

そう言い放つと私は、両手を合わせ、すでに若干曇っている空に向かい、

「アンビラソンケン ソワカ アンビラソンケン ソワカ ウン!」

と呪文を唱えだした。

すると、タイミングの良いことに、数分後にはパラパラと雨粒が落ち始め、本格的に雨が降り出したのである。

 はっきり言って、ただの偶然なのだが、頭の悪い少年二人を信じさせるには充分すぎる奇跡だった。

 その時からしばらく、私の中で私は『空海の生まれ変わり』という設定になってしまったのだ。

 

 大人はみんな、かつては子供だった。しかし、ほとんどの人がそのことを忘れ、殺伐とした日常に埋没していく。大切な何かをなくしちまったと歌われることもある。

 だがしかし、私には「空海事件」のような忘れてしまいたいもののほうが多い。そうした黒歴史たちが不意に頭をもたげ、私の脳裏に迫ってくるたび、私はたまらなく恥ずかしくなり、「ああ!もう!いいって!」と、ひとりで声を荒げ、彼奴らを打ち消す日々を過ごしているのである。

母よ あなたは強かった

母は今年の8月で64歳。

なんとこの年にして、故郷福岡の自宅を売り払い、全てのしがらみを捨て、息子と孫が暮らす街、花の都大東京へと引っ越してきたという、なかなかの傾奇者。

 

そんな母を形作る要素の一つに、「言葉のファウルチップ」というものがある。

簡単に言えば、ただの言い間違いである。だから、立派な空振り三振ではあるのだが、その間違え方が、おそらく彼女がアウトプットしたかったであろうその言葉に、絶妙にかすってるため、受け取る側も何がいいたかったのか汲み取れてしまう。言い間違えてるからアウトなのだが、バットにはかすっているため、ファウルチップを捕球されてのスイングアウトである。

 

例えばある日、母と二人でレトロな雰囲気のお店に入った時のこと。

母はキラキラと目を輝かせながら店内を見渡し次のようにのたまった。

「わぁ~、素敵な店やね~。レトルトやね、レトルト~。」

 

また、ある時、テレビにジャン・レノが映った時のこと。母は彼の事をこう呼んだ。

「おっ?!ジャン・レノンやん、ジャン・レノン!!」

 

このようなファウルチップが多い母だが、スイングの思い切りの良さが、こちらにも気持ちが良いので、たいがいはただの天然で片づけて流していた。

 

だが、時には、天然などと可愛らしく片づけられない間違いもある。

 

あれは、テレビがアナログ放送から地上デジタル放送に切り替わる、その移行期間の頃のことだ。

その頃のNHKのニュースは、メインニュースの画面の周りに余白を作り、サブ的に小さなニュースを字幕スーパーで流していた。

ある時、その余白画面の字幕ニュースで、

『 ソフトバンクホークスが ペタジーニ(36) を獲得 』

というのが流れた。

その直後、母が放った言葉は、ファウルチップを通り越して、キャッチャーのどたまをかち割った。

 

「ええ?!ベジータが?!」

腐れ縁

来る日も来る日も終わりなき、郵便配達というルーティンワーク。

かつてあれほど忌み嫌い、唾した、欺瞞と怠慢の巣窟である郵便局の仕事こそが、僕が唯一勤め得る職業であり、これから先も続いていく東京での生活の、その基底をなすものとなる運命であったとは、今更ながらに気付かされた。

 

自分がひとかたならぬ存在であることの証明に、野心を抱いて上京したものの、怠惰と傲慢の日々以外に積み重ねたものがない僕の行き着く先など、挫折と酒浸りの生活と相場が決まっていた。

 

かくして、故郷を捨て、栄光にも拒絶された自分が、それでも東京にかじりつき、飛び込んだ郵便局の仕事。

数年の月日をそこで過ごし、仕事と自分への憎悪がピークに達する中で勝ち取った、保育士の資格。

保育園での子供達との出会い。嫁との出会い。娘の誕生。

そして、舞い戻った郵便局。

東京での生活はこんなにも目まぐるしく、騒がしく、僕を四方八方に引きずり回してゆく。

気付くと、自分が夢に挫折した半端者であることなど忘れてしまっていた。

そう。そんなことはもうどうでもいいのだ。

なぜなら、かつての自分が抱いていた自分への認識も、追い求めた名声も、全ては自分が生み出した虚像であり幻想だからだ。

そして、今自分が抱いている自分への認識も、追い求めようとしているものも、いずれはうつろい、時の彼方へと消え去っていく。

それならばいっそ、そんな不確かなものに頼るのではなく、幼子の探索活動のように、恥を恐れず、己の好奇心を満たしてゆけばいいのだ。

 

やりたいことは山ほどあるが、今の自分の最優先事項は、家族の安寧と幸福。

そして、家族を守り幸せにするために、自分にできることに心を注ぐ日々が、自分を高めてくれていることを実感する今日この頃でもある。

そんな自分にぴったりの仕事、郵便配達。

来る日も来る日も終わりなきルーティンワーク。

家族のために必要な金と時間は充分手に入る。

あんなにも忌み嫌い、唾した郵便局の仕事が、今では自分の大切な家族を守ってくれてるとは。

かつて、自分と世の中に対する憎悪だらけの積み荷だった郵便局の赤いバイクは、今では幸せと座布団を運ぶ山〇隆夫となって、今日も東京の街を彷徨するのである。